2009年9月17日
モンゴル帝国以降のモンゴル
モンゴル高原の側では、中国を支配したモンゴル帝国(元)がモンゴル高原に北走して北元となった後、北元のクビライの王統に従った諸部族と、これから離反してオイラト族を中心に部族連合を形成した諸部族の二大集団に分かれた。後者はドルベン・オイラト(四オイラト)と呼ばれるようになり、前者はこれに対してドチン・モンゴル(四十モンゴル)と称される部族集団となる。明は、四十モンゴルを韃靼(タタールの漢訳名)と呼んだため、この時代のモンゴルのことはタタールと呼ばれることが多いが、自称はモンゴルのままであり、清代には蒙古(モンゴル)の呼称が復活する
20世紀の初頭に清が崩壊すると、清朝末期の辺境への漢人殖民政策に苦しんでいた内モンゴル人が外モンゴルのハルハ諸侯に働きかけ、まずもともと清の支配が比較的緩かった外モンゴルでボグド・ハーン政権が樹立された。そして北方から進出しつつあったロシア帝国に援助を求めた。内モンゴル各部族も帰順の動きを見せたが、露中蒙の協議の末、内モンゴル地域の中華民国帰属、外モンゴルの中国宗主権下の自治へと後退した。ロシアが共産主義革命を経てソビエト連邦となると、外モンゴルではその混乱に乗じて中華民国、ロシア白軍が侵入するが、外モンゴルが今度はコミンテルンの援助を得て再独立。ハーンの死後、共産主義国家のモンゴル人民共和国を建てた。これが現在のモンゴル国となる。一方、内モンゴルの諸部族は外モンゴルへの帰順や自主独立の動きがありながら、結局中国の領内に残り、現在の内モンゴル自治区となった。また、新疆ウイグル自治区や青海省に多いオイラトは、中華人民共和国の成立にともなって蒙古族の民族籍を与えられ、モンゴル民族の一部とみなされるようになった。モンゴルの遊牧民が居住に使う移動式天幕住居をモンゴル語でゲルと呼ぶが、内モンゴル自治区では公用語が中国語であるため、パオ(包)と中国式に呼ばれる例も多い。
チンギス・ハーン以前のモンゴル
モンゴルの名をもった集団が最初に歴史上に現れるのは7世紀のことで、中国の記録に室韋の一派である「萌古」「蒙兀」「蒙瓦」などという漢字をあてられ、モンゴル高原の東端に住むに過ぎない小集団であった。金末期頃に東部蒙古の大勢力部族であった韃靼(タタル)族は同系統であったという。後のモンゴル帝国の時代にまとめられた『元朝秘史』や『集史』に記録された始祖説話から、北東アジアの森林地帯の人々と北アジアの草原地帯の人々が混ざり合って部族を形成したらしいと考えられている彼らは、遊牧民契丹の王朝遼が、もともと狩猟民でモンゴル高原への強い影響力をもてない女真の金によって滅ぼされ、高原に権力の空白が生まれた11世紀頃には、モンゴル高原の中部から東部にかけて広がっているモンゴル諸語を話す諸部族のうちのひとつであった。
やがて、権力の空白を突いて成長し始めたモンゴル部族は、ウリヤンハイ部族やジャライル部族などを隷属させるようになり、12世紀の中頃にチンギス・ハーンの曽祖父にあたるカブル・ハーンを最初のハンに推戴して国家らしいまとまりを形成し始めた。ここでいう「部族」にあたる、遊牧民の寄り集まった政治体のことをモンゴル語でウルスといい、モンゴル部族はモンゴル・ウルスと称していた。カブル・ハンの死後、モンゴル部族の突出を警戒した金の策動により第2代ハンのアンバガイはタタル部族によって捕らえられて処刑されるとモンゴルの統一は揺らぎ、次の第3代クトラ・ハンを最後にモンゴル部族にはハンが立たなくなって、モンゴル・ウルスは12世紀後半には分裂の危機に陥った。ハンの称号を持たず、キヤト氏族の一首長に過ぎなかったチンギスの父イェスゲイ・バートルは、タタル部族と盛んに戦って勢力を広げ、モンゴルの再統一を進めつつあったが、チンギスが幼い頃に若くして死んだ。『元朝秘史』はタタル部族に毒殺されたとしている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
今日はモンゴルの歴史について調べてみました。
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